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L.A発、よみがえれ我が祖国・日本!
目からウロコの気になる情報、話題、日本への提言。L.Aからモノ申す!
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「1960年代のアメリカは激動の時代、変革の時代だった。私は体験者として、その生々しい時代を伝えていこうと思う」

「1960年代のアメリカは激動の時代、変革の時代だった。私は体験者として、その生々しい時代を伝えていこうと思う」


私が11歳の時、移民船「アルゼンチナ丸」で渡米した1963年当時のアメリカは、私にカルチャーショックを与えるに十分だった。そもそも、当時の日本は、目に入るものが色彩豊かとは言えなかった。塗装されるビルはコンクリートの打ちっぱなしだったし、車も衣類も色が限られていた。それが、ロサンゼルスに入港すると、色とりどりの派手な建物、車、衣類や空の色までが眩しかった。

この頃からアメリカは目まぐるしい光と影がはびこる激動の時代に突入した。キューバ危機の後、ベトナム戦争が深刻化して、若者の価値観が大きく変わろうとした変革の時代だ。

私がアメリカの土を初めて踏んだ2ヶ月後にはジョンFケネディー大統領がテキサス州ダラスで暗殺され、その3年後には当時、司法長官で、大統領として最有力候補とされていた弟、ロバートケネディーが大統領選の演説会場のL.Aのウィルシャー通り(今のコリアタウンの一角)にあったアンバサダーホテルで暗殺された。

黒人指導者のメルカムXも暗殺され、マーティン・ルーサー・キング牧師も暗殺された。黒人の公民権が認められる前後はまだアメリカの各地は人種差別がまかり通っていた時代である。1965年8月のワッツ黒人暴動は、1992年のL.A黒人暴動とは比較にできないほどの大規模だった。私が住んでいた地域にまで軍用車を走らせ、武装したL.A警察、4500人の州兵がパトロールしていた。

だが、1992年の黒人暴動では、新移民の韓国人商店が攻撃の対象となり、黒人やヒスパニックの略奪で大きな被害を受けた。メディアが自業自得だと報道するほど、韓国人の経営や客扱い、黒人やヒスパニックへの上から目線の差別がひどかったのだ。それが、このきっかけで暴発したのだ。

だが、1965年の黒人暴動は火災や略奪などの被害は、日系人が多く住む西南地区まで広範囲に広がっていたが、日系商店の被害は聞こえてこなかった。私の友人の母親が経営する酒屋さんは、近所の住民の黒人たちが自警団を作り、守ってくれた。当時の日系人は、コミュニティーに信用され、信頼されていたのだ。

日本もかつて日本だった台湾の歴史や世界中に点在した日系人の歴史や経験を教えることで、いかに日本人が忍耐、創意工夫、努力で信用を勝ち取ってきたかがわかる。

政治家や高学歴者よ、自虐史観に染まって日本の国柄、日本人の本質を知らずして、日本の国益を語るな。過去を知らずして、未来も語れまい。

若者よ、今に流されるだけではなく、過去、先人、自国の歩みを見つめ、学べるものが数多くあることに気づけ。


今のリトル東京、日本の状況を悪化させたのは戦後の歪んだ教育を受けた日本人自身なのだ!
最近はリトル東京に毎週、火曜日の夕方過ぎにしか行かない。リトル東京図書館が火曜日と木曜日は夜8時まで開館しているからだ。日本の書籍を何冊も借りているので返却するためだ。
数ヶ月前までは週に3、4度はリトル東京を訪問していたが、最近はあまりノスタルジーも心地良さも感じない。
気分が悪くなるのはたまに韓国人から韓国語で声をかけられることだ。その都度、大人げないとはわかっているが、「私は日本人だ。ここはコリアタウンじゃない」と英語で言うか、「おい、英語か日本語で話せ。ここはリトル東京だ」と日本語でまくしたてるかどちらかだ。もちろん私なりにTPOを意識しての表現だが。

リトル東京は私にとっては90年代の後半から徐々に悪化してきた。ひとつは日系以外の外国人資本がショッピングセンターを買い取り、転売する度、各店舗の家賃が上がったからだ。その影響で個人経営の日系商店が次々と廃業したのだ。その後に入ってきたのが、全米で展開するチェーン店や韓国系商店。
そういう時に限って、日本人らしからぬ日本人が目先の金儲けのためにリトル東京をダメにしてきた。
時同じくして、韓国系の銀行が、リトル東京に進出する韓国系企業や商店に低金利で融資するオマケつきで韓国系の進出が目立ってきた。

リトル東京のランドタワーだったホテル・ニューオオタニや隣のショッピングセンターの「ウエラー・コート」を所有していた鹿島建設が数年前に日系以外の外国企業に勝手に売却した。現在は「キョート・グランドホテル・アンド・ガーデン」となっている。

鹿島建設は日系コミュニティーに相談すると、いい条件で売却出来ないと判断したのだろう。サンフランシスコの日本町でも同じような売却のケースがあり、結局日系コミュニティーに多額な寄付をした事を伝え聞いていたのだろう。寄付をすることを逃れようとして、秘密裏に話をまとめてしまった。

しかし、1960年代に彼らがこの土地を入手した経緯を知っていれば、こんな勝手な事は許されなかった。多くの日系商店などが、リトル東京の発展のため、日本企業だからと、自ら犠牲を払って退去に協力してくれた事を忘れてはならない。協力的だった先代の鹿島建設の会長があの世で嘆いている事だろう。いつの頃からか、日本企業で日系社会との関係、歴史の引き継ぎが疎かになってしまったようだ。これは日本でも歴史に関して同じ事が言える。

日本企業がアメリカに進出し始めた当時、日系社会のバックアップ、協力無くして今日の繁栄はなかったのだ。当初はアメリカ人を採用出来なくて、英語が母国語の日系人を頼らざるをえなかった。日本企業がアメリカで実績を作ることが出来た功績の多くは日系人のおかげと言っても過言ではない。

そんな日系社会を平気で裏切る現在の日本企業。
1964年の日本での東京オリンピックも日系人のフレッド和田さんなくして開催されてはいない。そんなことも知らず、自力で経済大国になったと自惚れている日本企業や日本政府。恩を仇で返す韓国やシナからそういうところを学んできたのか?と情けない気持ちに陥る時がある。

何度も紹介してきた低所得高齢者住宅「リトル東京タワー」も20年くらい前に、当時の管理責任者の日本人が、入居の便宜をはかるために韓国人たちから裏金をポケットに入れていた。そのことが判明した頃には、多くの韓国人がすでに入居していた。また、この日系敬老ホームなどを管理する福祉事務所の「リトル東京サービスセンター」も今では韓国系の方が日系人より多いと聞いている。
悔しいかな、いつの場合でも問題を広げていくのは日本人自身なのだ。

日本でも問題を複雑化し、国益を失わせるのはマスコミ、官僚、政治家、反日勢力、戦後の歪んだ教育を受けた育ちが悪い一部の日本人たちなのだ。

現在、リトル東京の土地の70%近くが日系以外の資本にコントロールされている。コンドミニアム・アパートメントも増え、住民にとっては便利な街に成りつつあるが、日本人町と言うアイデンティティーは消えつつある。
近くの倉庫街はニューヨークを意識してか、芸術家のスタジオ兼住居地域となっている。

私の最近の持論は「数年後のリトル東京が近い将来の日本の姿だ!」。そこには日本と共通するおかしな現象がいっぱい詰まっている。だから、政治家や国づくりに携わっている人たちには「リトル東京にはいっぱいヒントが詰まっている」と伝える。町づくりの失敗例や成功例がリトル東京の100年の歴史から学べるのだ。

例えば、現在残っている日系新聞(日英新聞)で「羅府新報」がある。1960年代に私が1年半この新聞を自転車で配達していた。私が少年時代に住んでいた西南地区は黒人と日系人が問題を起こさず、協力し合って生活していた地域だった。
この地域を3人の少年が分け合って、自転車をこぎながら日系人の家に配達した。私が担当した150軒に新聞を2、30メートル先の玄関先に投げるのは簡単なようだが、変なところに投げないようにコントロールが要求される。

また話が思い出話になりそうだから元に戻そう。

では現在、なぜ「羅府新報」が規模を縮小し、販売部数が落ちたか?ここがヒントなのだ。
創設者の三代目が現在社長だが、彼はまずアジア系の人口に注目し、アジア系新聞にイメージチェンジを図ろうとした。しかし逆に文化的に異なるアジアの他民族と文化的共通性を見いだせなかった日系人の購読者が減った。だからといってアジア系は「羅府新報」を購読する事は無かった。
そりゃあそうだろう。日系人が知りたいのは日本や日系の話題で、韓国人、タイ人、フィリピン人、ベトナム人、シナ人の話題にはあまり関心が無い。

彼らのコミュニティーには彼らが好むフォーマットの新聞があり、「羅府新報」のような中途半端なアジア新聞には目を向けなかった。
結局、日系新聞色を強め、日本語は毎日新聞と提携を結んだ。しかし一度解約した人は再購読しなくなった。
そして、ネット社会が新聞離れを後押しした。
今では広告収入で十分経営が成り立つ無料新聞が氾濫し、ネット以外でも情報が入ってくる。

今考えると60年代や70年代は「羅府新報」を見て、結婚式、葬式、卒業式、ダンスパーティー、日本映画、ラジオ番組、などの日系、日本人情報を仕入れ、青春を満喫したものだ。たまに過去の新聞記事を郡立図書館で見るが、マイクロフイルムなので正直疲れる。
そんな100年近くの歴史があるコミュニティー新聞がつまらない新聞に成り下がった事を残念に思う。

マンザナー日系強制収容所巡礼の旅2012(パート2)、アメリカ政府から勝ち取った謝罪と補償の戦略裏話は?
前回の記事の続編である。日系アメリカ人の歴史、マンザナー日系強制収容所の話題は、基礎知識と関心がないと、つまらないかもしれない。
しかし、日本の方々があまりにも日本人の移民の歴史を知らなさすぎるので、時折、お節介ながら、日系のテーマで書き綴っていこうと思います。


第43回目のマンザナー巡礼イベントはUCLAの学生の和太鼓グループの演奏で幕が開いた。各トラックの荷台に設置されたステージ上で、セレモニーが進行された。関係者の挨拶の後、何人かの体験談、を語った。最後にみんなで「This Land is your land」、「上を向いて歩こう」を歌ってセレモニーが終了した。
ステージの前には今回参加した約1200名が熱心に聞き入っていた。人種も日系アメリカ人を中心に、アジア系、白人、黒人、ヒスパニック系など様々だった。

次は仏教、キリスト教、神道、イズラム教などでの慰霊祭が高さ4メートルの慰霊塔の前で行われた。最後に各宗派のお経の合唱をバックに、3列に並んだ参加者の日本式御焼香が始まった。ここに眠る百数十人の方々、そしてマンザナーに携わった、多くの亡くなった関係者に手を合わせた。

御焼香の列に並ぶ前に、一輪の花が各自に手渡された。私は頼まれて、私が一番最初に御焼香の御手本を見せる事になった。私の御焼香が終わると、次々と参列者が後に続いた。
見ていると、慣れない者がほとんどだったが、もしかして日本の若者の多くも今や慣れていないのではないかと思ったりもした。
御焼香終了のあとは、広場に大きな輪を作って盆踊りがスタートした。老若男女が音楽と太鼓グループの音頭に合わせて、人の輪が動き出した。
5、6曲「盆踊り」を楽しんだ参加者と共に、今年のマンザナー巡礼が閉幕した。

多くの参加者はその後、記念館や当時のバラックや食堂へと向かった。
このマンザナー日系強制収容所記念館が完成して20年になる。
現在は日系強制収容所を象徴する場所として保存され、歴史的サイトとして、国立公園局が管理している。この2年で、国や州からの予算が追加されたのか、当時の収容所の建物が4棟ほど復元されていた。中を覗くと、当時の生活を垣間見る事が出来る。

収容所生活の最初の半年間は悲惨だったようだ。その後、日系人は協議会などを作り、収容所の生活向上に尽力した。
私たちも記念館に向かい、写真を撮ったり、ビデオを回した。この模様はそのうち、Youtubeに動画をアップしようと思う。

そして、この地をあとにして、ここから5キロのインデペンデンスという町に向かった。この町には小さな郷土歴史館があり、マンザナー関連の写真や展示物もある。私の祖父が使用していた蓄音機やラジオも展示してある。これは、イトコが寄贈したそうだ。

今回は日系アメリカ人の歴史に詳しいカリフォルニア大学教授ドミンゲズ・ヒルズ校の日系人教授、ミッチェル・マキ博士とも有意義な話しを交わす機会があった。今回参考になったのは、なぜレーガン大統領がギリギリまで反対していたのに、米政府が戦時中の日系人強制収容に対して、謝罪することに同意し署名したのか?という話題だ。生存者各人に2万ドルの補償と名誉を勝ち取るまでの戦略を聞いた。
当時、レーガン大統領に訴えたい日系人の戦前、戦中のストーリーは沢山あった。
偉大なコミュニケーターであるレーガン元大統領にアピールできるストーリーを選ぶ事が重要だったのだ。

そこで選ばれたのが「442日系人部隊」のKazuo Masudaのストーリーだ。彼はヨーロッパ戦線でアメリカの従軍記者にインタビューされた。「家族が強制収容所に入れられているのに、なぜアメリカのために戦うのか?」Kazuo Masudaは「我々には、日系人の名誉を守るために、アメリカのために命をかけて戦うことしか残っていなかった。日系人の未来のために、アメリカ人として戦うしかなかったのだ」とインタビューで語った数日後、戦死した。
そのストーリーでレーガン元大統領の考え方が、署名の方向に大きく傾いたという。

マンザナー委員会の委員長のBruce Embreyとも2ヶ月ぶりに再会した。彼の今は亡き母親スーが、この「マンザナー巡礼」を立ち上げて、息子のブルースが彼女の遺志を引き継いだ。日本語があまり得意ではない3世の彼は、4世の娘に数年間、日本に留学させ、日本語をマスターさせた。今では親子3代で「マンザナー巡礼」を守ってきた。今後も日系人の地位向上のために闘っていくことだろう。

彼とは2年前に親しくなり、2ヶ月前には小説「Farewell to Manzanar」の作者Jeanne Wakatsuki Houstonと会って話した時も同席してくれた。
この小説はマンザナーでの作者の体験がベースになっていて、1970年代に映画化されて、その後、テレビでも放映された名作である。
日本語で翻訳されていると思うので、機会があったら読んで下さい。

そして、L.Aに向かう前に腹ごしらえしようと、Lone Pineの町にある台湾料理店に入った。なるべく日本風のラーメンに近いのを作ってもらったら、「長崎チャンポン」風のラーメン?が出てきた。味はイマイチだが、贅沢は言えない。ここを出ると、L.A近郊にに入るまで、砂漠地帯でまともなレストランはないからだ。

私は伝票をとって、イトコの分も払おうと財布を探した。何?何?ない!ない!
財布が無い。私は慌てて、イトコの車に向かって、財布が車の中に落ちているか探した。無い!ない!
私たちは急いで今まで立ち寄った場所に直行したが、ここはアメリカだ。届け出ているわけがない。結局、記憶にある5カ所に立ち寄ったが、見つからなかった。

人間、睡眠不足と炎天下の中のイベントで疲れ過ぎていると、注意力が低下して、財布を落とした事も気付かない。この日は普段はくこともないダブダブのチノパンツをはいた。疲れていて、面倒くさがって膝上のポケットのボタンを留めなかったことが落とした原因だ。座っても落ちたりするのだ。

数日間は、自動車試験場で免許証の更新、クレジットカードのブロック、銀行カード、その他の手続きに追われて、またまた疲れ果てた。プラス、母親の老人カードや証明書も所持していたので、いやー、参りました。やっと8割くらい片付いた。

財布に入っていた7、8枚の名刺は誰のだったか記憶に無い。あと、いろんなメモや電話番号やメールアドレスなども入っていたようだが、今でも「あと何が入っていたのだろうか?」と気になる。考えてもしょうがないので、縁がなかったと忘れよう!

2年前の「マンザナー巡礼格安バス・ツアー」では、帰りにバスが砂漠のど真ん中でエンストして、4時間以上待たされた。L.Aに着いたのが夜中の2時半だった。砂漠の夜の寒さは堪えたなあ。

今回の財布紛失はすべて私の不注意とだらし無さが原因でした。オーバーワークはロクなことがない。(ため息!)


マンザナー日系強制収容所巡礼の旅2012(パート1)
一昨日はマンザナー日系強制収容所の跡地で、巡礼セレモニーがあった。このイベントが催されるようになって今年で43年目だ。私は過去、10年前、2年前と今回で3度目の参加である。

マンザナーで生まれた68歳のイトコが早朝5時半に迎えにきた。目的地まで約400キロの道のりで、車で4、5時間かかる。
当初、6時出発のはずだったが、迎えに来たイトコがマイペースで、たまたま予定より早く起きたから早く迎えにきたそうだ。早朝2時半にベッドに入った私は、6時出発に合わせて準備していたので、ちょっとペースを狂わされた。

勿論、起きてはいたが、結局オニギリを作る時間もなく、慌ただしい出発だった。
私は日本人のメンタリティーを持ち合わせているせいか、こんな早朝に近所迷惑なクラクションを鳴らすのはいかがなものかと思った。

1942年~1946年の約4年間、約10万人の日系人が全米各地10カ所の日系強制収容所に収容された。70年前に日本人、日系2世、3世は全てを失いここに強制収容されたのだ。
昨年3月11日の東日本大震災や福島原発事故で全てを失った方々と状況は異なるが、一時的に希望を失ったという点では、共通の体験をしたと言えるだろう。

当時、私の祖父は家族とL.A近郊のサンフェルナンド・バレーに住んでいた。しかし、多くの日系人同様、地元警察とFBI、そしてアメリカ陸軍による、48時間以内の強制執行により住み慣れた家と農地を追い立てられた。最初は一時的に16ヶ所に設けられた「集結センター」に収容された。祖父たちの「集結センター」はL.A近郊のサンタアニータ競馬場の臭い馬舎だった。要するに人間扱いされなかったのだ。

その後、転住局によって砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた「戦時転住所(Relocation Center)」と呼ばれる全米10ヶ所の強制収容所に順次入れられることになった。祖父たちはこのマンザナーへと送り込まれ、ここでは祖父と、父の兄夫婦と弟が同居した。

真珠湾攻撃後、急ピッチで建設された強制収容所は当初は雑で、お粗末な作りだった。気候条件が悪いのに、壁は薄いベニア一枚で、隙間から砂埃が入ってくるような掘建て小屋だった。冬は超寒く、夏は猛暑の中で日本人は創意工夫で乗り越えてきた。日系人それぞれが協力し合い、適材適所で活躍したことで生活は大きく改善された。しかしそれは所詮、有刺鉄線のフェンスに囲まれ、兵士の銃口が日系人に向けられている中での生活だった。

日系人で組織された建築部がバラックの補修や建築を担当し、トイレ、食堂、診療所、集会所などを作った。みんなが協力して野球のグラウンドも整地し、日本庭園、畑も作った。趣味の会、演芸会、冠婚葬祭と、とてもまとまった日系コミュニティーが形成された。
みんなが一番困ったのがトイレだ。仕切りが全然ない便器が並んでいるだけだった。男性でも恥ずかしかったそうだから、女性はもっと恥ずかしかった事だろう。建築部はまず、トイレを改築した。

それまでは食事はアメリカ人が作った雑で不味い料理が並び、食が進まなかったと聞いている。それからは、日本人仕様のキッチンに作り直し、料理も日本人が作るようになった。

当時、祖母と父の姉2人、妹、弟と父本人も日本にいた。家族が分断されて、もちろんお互いに連絡もとれない。日本に住む父と叔父は、アメリカ生まれなのだが、日本帝国陸軍の軍人として、彼らの父親や兄弟がいるアメリカと戦う事になったのだ。
当時は日本人の子供が6歳ぐらいになると、教育レベルが高かった日本で教育させる家庭が多かった。そういう私の亡き父のように日本で育ち、戦後アメリカに戻った日系人を帰米2世と呼ぶ。

マンザナーの近くの小さな町、Lone Pineには午前10時前に着いて、マクドナルドで軽く朝食をとった。この日も夏を思わせる炎天下だったが、マンザナーを見下ろす山々にはまだ残雪が白く輝いていた。2年前に訪問した時より涼しい風が体にあたり、気持ちが良かった。

この町で出会う日系人のほとんどがマンザナーに向かった。マンザナー日系強制収容所の跡地にはレストランはないので、みんながこの町で腹ごしらえをするのだ。

マンザナーは時折、風が強く吹き、砂塵を巻き上げていく。
まず、跡地にあるミュージアムに入った。ここでは当時の写真や生活関連の展示、3メートル四方の当時のマンザナー強制収容所全体の模型などがある。

よくわからないが、車をミュージアムの駐車場に停め、近くまで車で行かず、そこから約2キロほど砂漠を歩いた。イトコはいつもマイペースだ。正午になると風も生暖かく、日差しも強く、乾燥した空気でノドがカラカラに渇いた。
バスが数台駐車されている広場にたどり着いた頃、セレモニーはスタートしたばかりだった。
(パート2に続く)

スミソニアン博物館「我慢の芸術」の動画!

日系人強制収容所での芸術の数々!

日系人強制収容70年で追悼式典(NHK)


元日系442部隊将校、ダニエル・イノウエ米国上院議員氏に外国人叙勲で最高の桐花大授章!
アップルの創業者で前CEOのスティーブ・ジョブズ氏が死去した。私もアップル歴5年ほどで、現在、I-MacとI-Bookを使用している。MacはPCよりソフトは少なく、不便なこともあったが、慣れてしまえば私にとってマックの方が使い勝手がいい。

最近、ジョブズ氏が入院をくり返し、CEO職を辞任したことで心配していた。彼は失敗や成功をくり返しながら、夢を追いかけた人だった。特に彼が一度追い出されたアップルにカムバックしてからはブランド価値と企業資産価値を世界一に押し上げた。彼の名前は今の時代を振り返った時、必ず最も優れたイノベーターとして語り継がれることだろう。この偉大なカリスマがいなくなったアップルの今後が気になる。


先日、ワシントンDCの日本大使公邸でダニエル・イノウエ米上院議員が、外国人外国人叙勲で最高の桐花大綬賞を受章した。バイデン米国副大統領も同席した。正直言って受章が遅いくらいだという印象だ。

現在、87歳ぐらいで、数年前に再婚したばかりの長老である。日系社会にも日本に対しても大きな功績を残した議員である。世界最強と言われた日系人442部隊の将校としてヨーロッパ戦線で戦い、片腕を無くしている。

ダニエル・イノウエ氏がひとつだけ日本を恨んでいることがある。
上院議員が当時の岸信介総理に、日本に日系人の大使を送りたいと申し入れると、「あなたたち何言ってるんだ。日系人と言うのは日本を捨てた人たちでしょ。みんな貧しい人たちですね。それが大使なんて無理ですよ」と言われて、ショックを覚えたそうだ。自分たちのように海外に出た人間は日本人としては落第生だと思われたのだと。
悲しいことだが、当時の特権階級の日本人のメンタリティーはそうだったのだろう。
その後、ペルーのフジモリ大統領の時代にはペルー大使に日系人を送り込んだが。

ダニエル井上米上院議員はハワイ州が米国の州になった1959年に下院、1962年から上院議員として、ノーマン・ミネタ元商務長官、元運輸長官(1974年にはやはり米本土では初めて米国下院議員に当選した議員)と共に、日系人の地位向上のために闘った。

ダニエル井上氏は2007年に下院本会議で慰安婦問題をめぐる対日非難決議が採択された際、「良好な日本との関係を危険にさらす」と書簡を下院外交委員長らに送るなど、反対声明を出し日本の立場を後押しした硬骨の政治家なのだ。

ダニエル・井上米上院議員は「米国の国益」を行動の軸とする。同時に日系人の誇りを胸に日米同盟の深化に全霊を傾けている。「幼い頃、祖父から名誉と義務の大切さを教わり、それに従って生きてきた」と。

今の韓国系を見ているとウソを世界に広めることを「義務」とさせ、その行為を「名誉」と教えているのだろうか?日本人の感覚だと「恥」だと思うが・・。こんなことを煽っても、次世代の韓国人の信用を落とすだけだと思う。

日系人が戦前からアメリカで差別を受けたのは、日本人が勤勉で、優秀だから白人が恐れた結果だ。しかし、戦時中、「強制収容所」生活、戦後の差別にも黙ってコツコツと信用を築き、イノウエ上院議員やミネタ下院議員のバックアップもあり、1988年、レーガン大統領から謝罪と賠償を勝ち取った。

日系人はそれまで、沈黙しコツコツ信用を積み重ねてきたのだ。全財産を失った47年後に謝罪と賠償を勝ち取ることより、日系人がアメリカで認められたことが重要だったのだ。

ウソの要求と権利ばかり要求し、正当な義務を怠ってきた在日半島人や韓国系アメリカ人とは大違いだ。ウソで固めてまで日本と張り合って地位を獲得して何になる?そんなニセモノはいつでも見破られる。結果、残るのは朝鮮民族の信用を失うこと、バチが当たって不幸を招くだけだ。

ダニエル・井上議員がなぜ、現在上院歳出委員長に選ばれたか?上院歳出委員会は軍事予算を決定するなど「米議会で最も強力な委員会」といわれる。彼の言葉によると、「その委員長に(日系人の)私が選ばれたのは、米国のリーダーたちが日米関係の重要性を真剣に考えているからです」
日本は今後も彼の力とアメリカの力を必要としている。今の日本はまだまだ国力や政治が熟していない。

だが、普天間問題に関しては結果次第では「堪忍袋の緒が切れることもあると申し上げたい」と手厳しい。
野田首相よ、いい加減な発言と、これ以上先延ばしを続けることは許されない。
日本人を祖先にもち、米大統領の継承順位で現在3位にいる日系アメリカ人議員からの重い忠告を忘れないでもらいたい。


日本の戦争TVドラマには、なぜ意地悪なイジメ・シーンを過剰に挿入するのか?そんなに日本人を醜く表現したいのか?
日本は今頃、終戦記念日の8月15日である。高速道路も帰省ラッシュか?
ところで、終戦記念日の中、全国で国旗を揚げている家庭が一体どのくらいあるのだろうか?
私が子供だった頃は、多くの家が祝日には国旗を掲揚したものだ。当時はそれが当たり前の光景だった。いったいいつから、そんな日本の風景が失われたのだろうか?
今日の繁栄の基礎を作ってくれた先祖、先人、英霊の事を、少しでも考える事があるのだろうか?
これこそ、戦後の日本教育に欠けている部分だ。

与野党の国会議員が52名、靖国神社に参拝した。別にすごいとも思わない。今まで参拝しなかった事が異常である。
菅首相以下、閣僚は一人も来なかった。こんな政権が日本人を大事にするわけがない。国の為に戦った日本人に手を合わせない政権は靖国神社の意味も知らなければ、知ろうともしない連中だ。売国奴には靖国神社はジャマな存在でしかない。そんな英霊を無視する奴らに未来はない。

今夜は我が家の仏壇に和ロウソクを立て、火をつけ、手を合わせた。我が先祖、先人、英霊に対し、私は誓ったのだ。「日本をよみがえらせる為に、一人でも多くの日本人に気づいてもらうために全力投球する」と。

どうも私は少年時代から、日本人意識が強かったようだ。それで助けられた事もあれば、それが原因でアメリカ人と喧嘩もした。

当時、韓国系は数が少なかったせいか、日本人を挑発する事もなかった。それどころか、しつこいほど付きまとわれた。
知らん顔していたら、いきなり後ろから頭を叩かれたりした。あとでボコボコにしても、懲りずにまた同じ事を仕掛けてくる。何としつこい連中だった事か。

今日はテレビでTBS開局60周年記念橋田壽賀子ドラマ「99年の愛・Japanese Americans」を見た。昨年末に放映されたが、今回は再放送である。

私は日系アメリカ人の歴史を長年研究したので、ドラマの脚本に対して注文も数多くある。しかし、全体的には許せる範囲に仕上がったと思う。
同じアメリカで生活していながら、当時日本と同盟を結んでいたドイツやイタリア系アメリカ人は普通の生活が許され、なぜ日本人だけが財産全てを失い、苦しまなくてはいけなかったのか?

このドラマで、草薙剛がミスキャストだ。日系二世の雰囲気は感じられなかった。松山ケンイチはそれらしく、自然な演技で好感が持てた。泉ピン子の若い頃の役を演じていたイモトアヤコはなかなか好演していて好感が持てた。
多くの日本の皆さんはアメリカで日本人が戦時中、強制収容所に入れられていたことを知らない。アメリカ在住の約12万人の日本人及び日系人は3年半の間、10カ所の強制収容所に送り込まれたのだ。そのほとんどの収容所は草木が生えない荒涼とした砂漠の中にあった。

彼らには48時間しか退去するための準備時間が与えられず、結果的に家、家財道具を安値で買い叩かれ、それまで築いた地位、ビジネス、財産、信用全てを失って、収容所生活が始まったのだった。「ジャップ!」と罵られ、警備の兵士に銃口を向けられ、バラック小屋に押し込まれ、日本人としてのプライドをズタズタにされた。

この鉄条網に囲まれた収容所のトイレはカーテンもドアも無く、便器が5つほど並んでいるだけという、若い女性は到底耐えられない所だった。雑に作られたバラック小屋は隙間が多く、そこから砂漠の砂ぼこりが風に押し付けられて、小屋の中に入ってくる。
夏の日中は乾燥した空気に猛暑、夜はヒンヤリする砂漠気候。冬は雪山から吹いてくる肌寒い寒風。

そしてトイレも改築し、日本庭園、農園、学校、診療所などを作った。アメリカ人の管理者たちも同じ予算で、いかに日本人がずば抜けた管理能力を発揮し、改善したことに驚いていたという。シナ人には絶対背伸びしても出来ない事だ。

我が三宅家も祖父の代からアメリカに開拓移民で来ていた。約、110年前からだ。
祖父も「マンザナー日系収容所」に入れられた。私のイトコ二人も収容所内で生まれている。ドラマと同じように長男、三男はアメリカ、次男の父を含めて四男、長女、次女、3女は日本で生活という家族バラバラの生活だった。祖父は農場を乗っ取られ、全財産を失い、終戦後、収容所を出て3年後にこの世を去った。

私には日系人の収容所生活者が東日本大震災の被災者とどうしてもダブってしまうのだ。
被災者の皆さんには、全てを失っても日本人の底力を見せようと、必死に戦後を生き抜いてきた日系人の「我慢」を見習ってもらいたい。
何の補償も支援も無かった日系人は、団結と忍耐と努力で立ち直った。現在はアメリカで重要な地位に付き、アメリカに必要とされる人材も育っている。

我々日本人、日系人にとって、まだ苦難すら経験していない韓国人が、ここアメリカで生活保護などをズルイやり方で受給したり、要求のみで、日系が黙って、耐えて貢献したことを考えると、韓国系とは一緒にしてもらいたくない気持になる。

もし、日系人たちが現在の韓国人のように理不尽な要求ばかりしていたら、現在の日系人への信用と信頼は勝ち得てなかっただろう。韓国が歴史上、大国に慣れなかったのはきっと神様の堪忍袋が切れたからだろう。こつこつ正直に生きるのがベストだよ、韓国さん。

日本の戦争ドラマを見ると、主人公以外の日本人をなぜ、ここまで醜く描こうとするか理解出来ない。そんなにあの時代の日本人は、意地悪な人ばかりだったのか?私の周辺の御年寄りからは「そういう人もいた」程度の事しか耳に入らない。
私の父は武道で有名な大学で主将を務め、卒業後、長野の高校で国語と柔道を教えていた。招集されてから、多くの関係者が見送りに来ていたそうだ。ドラマのように、アメリカ生まれだから石を投げられた事もないと言っていた。
私が東京でお世話になっていた、父の旧制中学の同級生は、特攻隊の生き残りだ。彼もアメリカ生まれだが、虐められた記憶がないと聞いていた。当時、私の田舎にはアメリカに行った日系移民の子供が多かったからかも知れないが・・。

日本には、ドラマで意地悪で根性ワルのイジメのシーンを撮るのが好きな制作者が多い。いつも見ていて、不愉快になる。まだ、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」の方が日本人らしい描き方で、心地よかった。外国人でも描けるのだから、日本人ならもっと自然に撮れるはずだ。

戦後の日本は、自虐史観教育の結果をこういう意地悪な日本人をドラマに登場させる事で、ガス抜きをしていたのだろうか?それこそ日本人を骨抜きにする洗脳教育ではないか!

日系人強制収容所と我慢の達人たちの「我慢の芸術」
先日、友人とスミソニアン博物館で展示されている「Art of gaman(我慢の芸術)」の話題といかに日本人が凄かったで盛り上がった。この千点以上にも及ぶ作品群には日系人の苦しみの歴史が詰まっている。

多くの日本の皆さんはアメリカで日本人が戦時中、強制収容所に入れられていたことを知らない。アメリカ在住の約12万人の日本人及び日系人は3年半の間、10カ所の強制収容所に送り込まれたのだ。そのほとんどの収容所は草木が生えない荒涼とした砂漠の中にあった。

彼らには48時間しか退去するための準備時間が与えられず、結果的に家、家財道具を安値で買い叩かれ、それまで築いた地位、ビジネス、財産、信用全てを失って、収容所生活が始まったのだった。「ジャップ!」と罵られ、バラック小屋に押し込まれ、日本人としてのプライドをズタズタにされた。

この鉄条網に囲まれた収容所のトイレはカーテンもドアも無く、便器が5つほど並んでいるだけという、若い女性は到底耐えられない所だった。

しかし、日本人は決して未来を諦めなかった。展示されている「我慢の芸術」は生活に最低限必要な日用品を手作りするところから始まった。スミソニアン博物館に展示されている作品は、芸術家でも何でもない一般の日系人が、過酷な収容所生活に耐え抜いた中で、コツコツと作られたモノを個人個人から集めたものだ。

当初、強制収容所は戦争が始まってから突貫工事で作られたもので、1万人以上の人が人間的に住める状態ではなかった。トイレも食堂も長い列で、絶対数が不足していた。

そこで日系人リーダーたちがアメリカ側の管理者と交渉して、自分たちで住み良い環境を作り出した。床の隙間からは強風のため、砂埃が入っていたので、皆で助け合いながら大工仕事もやった。そしてトイレも改築し、日本庭園、農園、学校、診療所などを作った。管理者たちも同じ予算で、いかに日本人がずば抜けた管理能力を発揮したか驚いていたという。シナ人には絶対背伸びしても出来ない事だ。

日系人が苦しんだのは監視の中、まるでモノのような扱いを受けた事だった。収容所内では「番号札」が全員に付けられ、管理するアメリカ人からは番号で呼ばれた。多くは表札を彫り上げ、バラックに打ち付けた。日本人は自分の名前に誇りをもっており、これはささやかな抵抗だったのだろう。

日本人はどんな苦難に立たされていても、後世に残るモノを作り出す才能に長けていた。家具からアクセサリーまでバリエーションを広げていった。そろばん、スズリ、箸、杖など日用品から工芸品まで作った。それも道具が無く、その道具作りから始まったのだ。

素朴で創意工夫に満ちたこういう作品は、人種や世代、国籍を越えて、見る人の心にメッセージを送り込む事だろう。

展示品を観て、多くのアメリカ人は驚き、感動を覚えた。限られた道具、材料から作られた数々。極度の絶望の中でも、日本人たちはモノを生み出す力を失わなかった。日本人は諦めなかった。これらは逆境を撥ね除けようとする日系人の、気高い精神の表現へと開花して行った。「我慢」の末に展開したその結晶が、アートとして表現された。

多くの日本人は3年半後、強制収容所を出ても、決してこの場所や白人に対して悪く言わなかった。収容所の中での我慢も凄いが、その後、二世、三世に作品を見せないで我慢していた。子供たちがアメリカに溶け込むように、アメリカに反感を持たないように、アメリカから反感を持たれないようにといった配慮が、日本人にあったのではないかと思う。そこがシナ人と違うところだ。

当時の日本人は、日本で我慢、日本から移民してからも我慢、強制収容所でまた我慢の連続。日系一世たちは、我慢の達人の域に達していた。今の日本人がこういう状況で、耐えて、こういった作品を作れるだろうか?

先人たちの凄さを改めて知った。敬意を込めて「日本人って凄いな!」

この動画は日系強制収容所内の生活と、スミソニアン博物館「我慢の芸術」展示作品紹介。短い動画ですので、ご鑑賞いただければ幸いです。日本人の気高い精神の表現です。







私のイトコの2人は収容所内で生まれた。私の祖父、叔父2人もここでの生活を余儀なくされた。祖父は戦前は大きな農場を持っていたが、真珠湾攻撃から始まった日米戦開始後、全てを失った。そのショックが響いたのか、戦後間もなく亡くなった。

当時、父と母親、アメリカ生まれの父の2人の姉、弟、妹は日本で暮らしていたので、親子兄弟離れ離れであった。戦時中、父は日本帝国陸軍に入隊し、フィリッピンに送られ、父親、兄弟が生活するアメリカと戦うこととなったのだ。
父が生まれたアメリカに帰米二世として入国が許されたのは1959年、戦争が終わって14年経ってからだった。



プロフィール

Chris Ryouan三宅

Author:Chris Ryouan三宅
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在米通算40年以上。我が祖国・日本大好き人間。日本文化や先人たちが築いた功績を最大限に評価している。北米日台同盟会長、L.A・日本をよみがえらせる会代表。柔道2段、合気道、居合道、相撲初段。

日本に帰国する度、生活様式、行動様式がシナ人、朝鮮人化する日本人を見て危惧している。
外国人参政権には絶対反対。どこの国がそれを実施しているというのだ?在日特権廃止、パチンコ撲滅を願っている。

TPPにも基本的には反対。受け入れると日本の国柄を失い、日本人らしさを失い、3万5千社以上ある100年以上続いた老舗企業の多くが数年のうちに姿を消す事になる。日本文化が失われ、現在のアメリカのような、金に心を奪われた自分勝手な人間社会が出来上がるのだ。

国民が知らないうちにシナ人、朝鮮人、不良外国人が繁殖した日本。世界中でダントツに治安がいい国と評価されていた日本が、このままだとトップの座から転落する。

気がつかないうちに自虐史観、日教組教育に染まった日本人。

今後の日本は、私が支持している真正保守が力を発揮する舞台を用意しなければ、日本は国柄を失い、伝統や文化が廃れ、日本は本来の姿を失うことになる。そうならないために、私は声を上げ続ける決意だ。

それにしても3年4ヶ月の詐欺師、嘘つき、素人、売国奴の旧民主党政権が残したツケは大きい。

日本の国益を損ね、在外邦人の名誉、信用、尊厳、誇りに傷をつけた国賊の河野洋平は許せない。そして息子の太郎も、外務大臣として、近いうちに父親の「河野談話」を白紙、撤廃しなければ、憎み続けるつもりだ。

鳩山由紀夫、菅直人、民進党、社民党は大嫌いで目障りだ!
このままだと、私が笑顔で過ごせる祖国がなくなってしまう。
日本人が一日も早く気づかないと取り返しがつかなくなる。そのため、遠くロサンゼルスから声を張り上げる。


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